ショップ店員のお見送りシステムはなぜ恥ずかしいか。

アパレルやブランド物のショップで商品を購入した際、店員の接客に違和感を感じることが時々ある。

それは、商品を購入した顧客に対し、店員がその商品を持ったまま店外まで見送るシステムについてである。以前からこの接客方法について、非常に恥ずかしく不自然なものではないか、と考えていた。

ところが、これはケースに応じて、適切に機能する接客であるということにふと気づいた。そのケースとは以下の4つが複合的に働く場合であると考えた。

  1. 購入物が多く(荷物が増える)
  2. 店内が広く(歩く距離が長い)
  3. 顧客が女性であり(力が弱い)
  4. 店頭にタクシーなどの迎えがある(そのまま荷物を載せられる)

以上の4点のうちのいくつかが複合的に存在している場合、上記の接客は何ら不自然ではなく、多くの商品を購入していただいたお客様に対し、最大限配慮していると感じる。ホテルなどでもごく普通に行われている接客だと言える。

ではなぜ、それにもかかわらず、この接客を自分は「恥ずかしい」と感じてしまうのか。それは、

  1. そんなに購入したわけでもない(荷物が少ないくせに持たせている)
  2. すぐそこが出口(またすぐに受け取ることになる)
  3. 自分が男性(それぐらい持てるし、持たせる方が申し訳ない)
  4. 店を出たら結局自分で持つ(上記の3点を出口で改めて他の客にも周知される恥)

ということである。

まとめると「たいして買ってないのに、偉そうに持たせてる情けない男性」感である。

つまり、この接客はTPOを考えて使えば何ら問題はないのだが、マニュアル接客でどこの店舗でも、どんな顧客に対しても行っているのが問題なのである。それによって、購入者が違和感を感じるばかりか、お得意様に対しても特別感をもたせた接客ができなくなってしまっているという店舗側の問題さえもはらんでいる。

デメリットのある画一化したマニュアル接客には注意したい。

パクリ問題

まとめサイトなどでのパクリ問題がホットな話題だ。

Twitterなどで、とにかく画像や文章のパクリが多く、またそれについて罪悪感も持っていないユーザーが増えた。

そもそも引用と盗用の違いを理解していないユーザーが多くて、著作権の考え方のもとでは、引用リツイートやリブログなどとコピペは全く違うし、引用は参照元を明らかにしなければならない。

だがちょっと記憶を遡ってみれば、90年代ごろのインターネットの世界においては、WWW上に公開された画像や文章は自由に使って良い共用財で、使われたくなければ公開するな、というような風潮も(暗黙的に)あったように思う。

一時期インターネット上での情報価値が高まり保護を強化する動きが強まって萎縮していった気がするが、今はなんとなく90年代ぐらいの展開していく感じに戻ったような気がしている。

創造した物=全て著作物=守られるもの、という仕組み、またその期限を延長しようというような動き、それは本当に人類の未来のためにある仕組みだろうか?

現代に起こっているクリエイティブ人材の流出問題

「もともと制作にすごいできる人が居たんだけども、急にやめてしまって、欠員が出た。だから募集しています。」

みたいな企業が世の中に多く存在する気がしている。

そのスタープレイヤーは、雇用した時はまだ新人だったが、当人に仕事が集中するあまり、自動的に成長していって、気づけば何でもこなす人になっている。

周りも「すごいすごい」「頼りになる」と言うものの、給与や休日などの待遇面では、当初雇用時の契約のままであったり、他部署と同様の賃金体系で、年功序列であったり、年1回の微々たる昇給であったりとか、とにかく人事的な評価に繋がっていない。「声」の評価は高まっているのに「金」の評価が高まっていない。

クリエイターの中には、前者があれば良いという人も多いけども、後者も当然重要だ。前者と後者のギャップが大きくなれば、当人に問題意識が芽生えてくる。

このことに人事や上司が気付かずにいると、突然辞めてしまうのである。それは周囲からすれば「突然」なのだが、当人には積もってきた何かがある。

このパターンは、おそらくデザイン事務所などのクリエイティブ人材が多い企業というよりも、中規模以上の営業部や製造部などがある中のクリエイティブ部門において発生しがちだろうと思う。

こういった企業は、「またあの人みたいなスタープレイヤーが来ないかな」と救世主待ちの状態に陥っているが、実際は、絶対に来ない。なぜなら、待遇面の改善、システム改善がなされていないし、それを問題とさえ思っていないから、そこで働きたいと思うスタープレイヤーはいない。いたとすれば、その人はボランティア精神にあふれている。

終身雇用の時代であれば、そこそこ働いて給与も上がっていって良かったのだが、もはや労働が流動的な時代。「すごいできる人」は他社でも通用するスキルを持っているだけに、簡単に流出してしまうのである。

世代を超えた競争時代の到来

元来、年長者は(形式上だけでも)尊敬の対象であった。大人はなんだかんだいって、若者より色んなことができる。実はそれは幻想で、本当は年長者も若者も能力差はなく、ただ現代社会形成という面において、年長者は有利であったのだ。社会ではなく個人間の競争になったとき、その論理は崩れる。デジタル化の進行による高級製品のコモディティ化(特にパソコン)と情報通信の進化によってそれが現実のものとなり、世代を超えた競争が始まる。

と、私はかねてから思っていた。だが、実際はそれが思ったより早く進行してきているようだ。

これまでの時代は、監督の演出に沿った良い役者となることで売れっ子俳優になり得ていたが、現代の役者たちはカメラや照明を自由にいじることが可能になったため、脇役として出演していてもいきなり主役のシーンを作ることが可能になったのだ。(それは機材が安価に、デジタル化で操作が容易になったために、若くして機材を入手したり、操作を練習することが可能になったので、監督との技術レベル差が相対的に低減したからである)

これまで大人たちは、監督権限を握っていたので、照明やカメラを向ける対象は監督の気に入った役者が中心であった。だから監督に気に入られることが最良の出世方法であったのだ。ところが、照明やカメラを自由に使える現代の役者たちは、監督の言うことを聞く必要がない。そうなると、監督は威厳を失うので、ただ監督という「ポジションにいる」だけでは示しがつかず、本当に照明やカメラの当て方が上手いかどうか、演出が上手いかどうか、ということが問われるようになってきたのである。

つまり、技術力とプロデュース能力のある人材は若くても、老いても同様に活躍できる。そういう時代になってきたわけである。しかも若いということは発想の自由さも合わせ持っており、強みである。逆に年齢を経たものは、経験を積み重ね続けなければ、ますます不要になっていくのである。

もう「監督」という肩書きは意味をなさなくなってきた。なぜなら、誰もが「監督」も「役者」もやる時代であり、「監督」たり得るためにはただ他の監督より優れているだけでなく、役者・照明・カメラマン…その場にいる全ての人間より優れた「監督」能力が必要なのである。

タイポ子の部屋(1) Helvetica

helvetica

 

ヘルベチカ。

スイスで生まれたこの書体は、まさに永世中立国。

でかい級数で見出しとして使っても、小さな級数で本文として使っても、派手なグラフィックでも、落ち着いた書籍であっても、使って安心。

質実剛健で、信頼度が高い。裏切らない書体である。愛しています。

だが、ヘルベチカにも弱点はある。

ロゴタイプで使いたい時に、Rの足先を処理しなければいけない
(※あくまでも個人の感想です。)

実は、ヘルベチカには先祖がいる。HaasGroteskという書体だ。この書体はなんかもうバウハウスという感じ(?)
この書体から移植してくれば、ヘルベチカを処理せずにRが使えるんだけど、普通持ってないよねっていう。

 

タイポ子の部屋は毎回書体をゲストにお招きして、言いたい放題言うコーナーです。

クリエイティブ精神論

アイディアを思いつくのなんて簡単だ
いくらでも思いつく。
本当に難しいのはそれを実現することである。

だが実現するのも実は簡単だ
特別な技術は必要ない。
たった1つのものがあればいいのである。

それは「絶対実現する」という意志だ